【YouTube】紅麗威甦(グリース) 時代(とき)を越えて
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紅麗威甦(グリース) 時代(とき)を越えて
紅麗威甦(グリース)は日本のロックバンド。横浜銀蝿の弟分「銀蝿一家」の一員として嶋大輔に次いでデビューした。
来歴[編集]
- 1982年1月20日 - アルバム『ヨ・ロ・シ・ク壱』、シングル『ぶりっこROCK'N ROLL / 翔んでるセブンティーン』の同時発売でデビュー。
- 1984年3月21日 - 無期限の活動休止を発表(哲太は俳優業に専念。桃太郎、Leer、ミッツは田口オサム、麻生仁と「BLACK SATAN」を結成)。
- 2006年12月2日 - 桃太郎を除いたメンバーで「紅麗威甦」一夜限りの復活Liveを開催(東京・渋谷のライブハウス・CHELSEA HOTEL)。
- 2010年7月 - 桃太郎、Leer、ミッツが「紅麗威(グリイ)」として活動を開始。
メンバー[編集]
- 神奈川県立藤沢工業高等学校(現・神奈川県立藤沢工科高等学校)中退。身長180cm、血液型O型。
- 桃太郎 (ミュージシャン)、本名:木島 昌彦、1965年10月19日) - ドラム(活動後期にはボーカルも)
- 東京都立北豊島工業高等学校卒業。身長175cm、血液型AB型。
- 東京都立第一商業高等学校卒業。身長171cm、血液型O型。本木雅弘は中学の同窓生。
脱退メンバー[編集]
- 名前不明 (1981年の映画『ぶっちぎり』にも出演しているが、遅刻が酷かった為にレコードデビュー前に解雇)
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【YouTube】キャロル 二人だけ
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キャロル 二人だけ
CAROL(キャロル)は、1970年代に活動した日本のロックバンド。1972年に結成し同年デビュー、1975年解散。
経歴[編集]
アマチュア期[編集]
1972年4月、矢沢永吉が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ[9]、同年6月結成される[10][11][12]。貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった[13][14]。当時はフォークがメジャーシーンに浮上しはじめ[15]、ディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏できる場所がなくなっていった時期だった[16][17][18]。ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという[14][19]。近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという[20][注 2]。
もともと、ビートルズのコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)した。
当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉[22][26]。クリスマス・キャロルにインスピレーションを受けたという「キャロル」というバンド名に始まり[27][28][29]、革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの[26][29]。当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという[30]。ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが[注 3]、当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという[29]。矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている[32]。
ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態で[22][33]、デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく[33]。矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており[33][注 4]、矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった[33]。ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半矢沢に代表されていた[33][注 5]。
キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏[35][36][37]。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる"ハコバン"として採用された。もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライブ活動を行う[11][17]。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う[17]。深夜から明け方まで、"荒くれの兵隊"や、"夜の商売の女"、"酔っ払い相手"に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる[11][35]。東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった[11][38][39]。
プロデビュー[編集]
フジテレビの番組『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」という企画(「ロキシー・ミュージック#エピソード」参照)に、ジョニーがハガキを送ったが断られた[40][41]。これに頭にきた矢沢が『リブ・ヤング!』の担当者に電話を掛け、「俺たち、とっくの昔からロキシー・ファッションだけど?」などとハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続け番組出演が決まった[9][11][41][42][43]。
1972年10月8日、『リブ・ヤング!』に出演したところ[44]、内田裕也から先に直接オファーを受けたが[45]、たまたま家で番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり[46]、番組プロデューサーの石田弘にミッキーから電話があり「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と伝えられ[43]、リーダーの矢沢がミッキーと電話で話し、内田のレーベルか、ミッキーのレーベルかでメンバーは迷ったが[43][47]、結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ[46][47][注 6]。
『リブ・ヤング!』出演3日後の10月11日、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ[51]。しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ[注 7]。
デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーディング直前、ドラムスを担当していた今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退し、ミッキーの紹介でユウ岡崎が正式メンバーとなった[46][56]。
1972年12月25日、「ルイジアンナ」でデビュー[57]。結成から3、4ヶ月でのプロデビューであった[51][58]。同曲のドーナツ盤レコードには、東京・文京公会堂の無料コンサートチケットが同梱されていた。同コンサートには和田アキ子が友情出演している。
ミッキーのアイデアで「ルイジアンナ」でデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリース。1972年12月から1973年6月までの7枚のシングルが毎月売り出された[15]。「ルイジアンナ」が20万枚、「ヘイ・タクシー」が10万枚、「ファンキー・モンキー・ベイビー」は30万枚を売り上げた[59]。その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった[59]。
2枚目のシングル「ヘイ・タクシー / 恋の救急車」のレコーディング終了直後、ドラムのユウ岡崎がトラブルを起こして逮捕され、またミッキーの紹介で相原誠(後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加)がドラマーとして加入[60]。3枚目のシングル「やりきれない気持ち / ホープ」のレコーディング終了後、ユウ岡崎が仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにしてユウ岡崎をメンバーに戻した[注 8]。
1973年2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演[61]。『リブ・ヤング!』の熱演で、週刊誌も大きく取り上げ、篠山紀信、山本寛斎、龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンターたちも会場に集まった[61]。彼らはキャロルのロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感にいち早く着目[11][62]、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマークし、キャロルを被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はディスクジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載。キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った[11][18][63]。当時キャロルのメンバーはライブの前に大量に酒を飲みステージに上がった[64]。「第1回ロックンロール・カーニバル」では、初の大舞台ということもあって極度のトランス状態に陥り、ジョニーが失神した[64]。これによってキャロルは失神するほどの強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた[64]。
マスメディアのインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった[65][66]。
1973年、NHKのディレクターだった龍村仁がドキュメンタリー『キャロル』を制作したが、放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった[59][67][68]。
この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超えて、社会現象として1つの色に塗り替えた[59][69][70]。
この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる[71]。
ジョニーは著書で「ドラッグを始めたのは、キャロルがデビューしてすぐのころ」と書いており[72]、当時ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり[22]人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に失踪[73]、1973年11月23日~1974年2月中旬まで行方不明となった[74][75][76]。発見されたのは川崎の精神病院だった[22][77]。そのこともあり、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新メンバー・サミーを加えて活動した(その後ジョニーが復帰[74][78])。
1974年3月21~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う[51][79][80]。
1974年8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた[81]。
解散・その後[編集]
メンバー間で軋轢が生じ[82]1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で解散。3千人収容の会場に7千人がつめかけた[83]。解散ライブでは、特殊効果用の火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングがあった[9]。それを演出と思った観客も多かった[9]。このあまりにも象徴的なハプニングが伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった[83][84]。この解散ライブは「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった[49][85]。解散ライブのテレビ放映は、同年7月12日にTBSテレビ『特番ぎんざNOW!』という番組で1時間枠が組まれ「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された[86][注 9]。日本のロックバンドのライブ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる[86]。
解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長[84][87]。
ジョニー大倉はソロ活動の傍ら、俳優としても活躍していたが[88]、2014年11月19日、肺炎により死去[89][90]。62歳没。
内海利勝はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションで作品を発表したほか、原田芳雄のサポートやソロ活動を展開[91]。2012年には矢沢のライブに出演し、37年ぶりの競演を実現させた[92]。
ユウ岡崎は現在『C's Graffiti Japanese Rock'n Roll Band』で活動している。
【YouTube】クールス 追憶
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クールス 追憶
クールス(COOLS)は、日本のロックバンドである。1975年結成、現在も活動中。
概説[編集]
結成からすでに40年以上経っているが、音楽性やファッションなど一貫して変わらず活動を続けている。元メンバーに舘ひろし、岩城滉一、水口晴幸(ピッピ、PITPI)、横山剣など有名芸能人を輩出している。BUCK-TICK、藤井フミヤ[1]など、その影響を受けたミュージシャンは数多い。
当初は、そのファッションや成り立ちから「不良」を売り物にした。またジェームス藤木は数多くのミュージシャンに楽曲を提供している。
バンド結成当初はコンサート会場にファンの暴走族が集結したり、その他のファン層も不良少年が多かった。
歴史[編集]
舘ひろしと岩城滉一の出会い[編集]
飲食店で食事をしていた岩城滉一に舘ひろしが歩み寄り、身構えた岩城に「あのバイク、君の?」と話しかけ、バイクの話題で意気投合する。当時、舘はバイクの免許を持っておらず、岩城に勧められ、岩城のバイクに二人乗りして教習所に通った[2]。
結成(バイクチーム「クールス」)[編集]
東京原宿において1974年12月、舘ひろしをリーダー(チーム内での呼称は「ボス」。ただし水口晴幸(ピッピ、PITPI)のみ「大将」と呼んでいた)に、岩城滉一(同じく、チーム内での呼称は「コーちゃん」)をサブリーダーに、および岩城の学生時代からの友人であった佐藤秀光らで結成されたモーターサイクルチームが原点。
結成に際して「このチームはリーダー(舘ひろし)の独裁により運営される」という血判状を作成したという。当時舘ひろしはカワサキのZIIに乗っていた。
チーム結成当時の人数は21人で、メンバー全員リーゼント・黒の革ジャンパー・黒または青のジーンズ・黒のオートバイで統一された。「黒」というカラーにこだわったのは、舘ひろしが学生時代にラグビー部の主将をしていて、ラグビーNZ代表「オールブラックス」が好きだったからといわれている。表参道の神宮前交差点近くにあった原宿レオンという多くのクリエイターが出入りするカフェが溜り場で、店の前に黒いオートバイを数台並べている様は大変注目を集めたという。
1975年4月13日、矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務める。これはローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘に同じような演出をしたいと持ちかけたもの[3]。キャロルの解散コンサートを収録したDVD(一部カット編集)にはバイクチーム時代のクールスの走行場面が映っており、また、岩城滉一がキャロルとの思い出を語ったり、舘ひろしがキャロルメンバーにインタビューしたりする場面などが収録されている。この活動によりクールスは一躍脚光を浴びた(キャロルよりクールスを観ていたという客がいたほど[4]、当時は芸能人ではなかったにもかかわらず、注目されていた)。なお「クールスはキャロルの親衛隊」であったが、個々の交友や接触はあったものの両者は対等な関係であり、また当時はあくまでロックバンドとそれを支持するバイクチームの関係であった。よって「クールスはキャロルの弟分バンド」「矢沢永吉は舘ひろしの兄貴分」という認識は誤りであり、またその後のクールスの音楽性もキャロルとは異なるものであった。
第1期 クールス[編集]
当初、舘ひろしはバンド結成については否定的であったが、熱心なキングレコードの若手社員に説得され、「チームのメンバーを食べさせていくため。」として、バンド結成を決意する[5]。
キャロル解散後の1975年9月、チームの中から選抜された7名とバンド結成から参加の大久保喜市[6]の計8名で、アメリカンロックンロールバンド「クールス(COOLS)」としてシングル「紫のハイウェイ」でデビュー[7]。その際、岩城滉一は参加しておらず、そのまま俳優となった。岩城が参加しなかった理由は、すでに俳優としてデビューすることが決定していたからであった。
結成メンバーは以下の8名。()内は担当楽器/ニックネーム。
- 舘ひろし(ボーカル/ボス)
- 水口晴幸(ボーカル/ピッピ)
- 村山一海(ボーカル/ムラ)
- ジェームス藤木(リードギター/ジェームス)
- 飯田和男(サイドギター/フランク)
- 大久保喜市(ベースギター/キイチ)
- 佐藤秀光(ドラム/ヒデミツ)
- 梅村光男(ギター/社長) ※結成後、すぐに脱退した。
キャロルが、ビートルズを手本とした8ビートのブリティッシュロックンロールだとすればクールスは、4ビートのアメリカンロックンロールであり、舘が手本に考えていたのはアメリカンロックンロールバンドのシャ・ナ・ナ(en:Sha Na Na)であった(それは舘・水口・村山の三人ボーカルにも表れている)。
バンド結成時のメンバーは、リーダー舘ひろしがバイクチーム内から音楽・楽器の経験者を選抜した。
キングレコードから『黒のロックンロール』『ロックンロール・エンジェルス』『東京直撃』『ハローグッドバイ』の4枚のアルバムを出す。また『暴力教室』『男組~少年刑務所』などの映画にも出演した(但し、『暴力教室』にはメンバー全員出演しているが『男組~少年刑務所』には後述の理由で、水口とジェームスは出演を拒否している)。
その後1977年4月リーダーの舘が脱退。後に大久保が出版した「ストレンジブルー」によると、映画の主演はあくまでも舘ひろしであり、その他のメンバーは脇役という状況に、またリーダーとしてすべてを握る舘に対し他のメンバーから反感が出はじめ、そのほかでも映画やマスコミに出たい舘と、純粋に音楽だけをやりたい他のメンバーとでズレが出て、次第に血の結束を誇ったクールスでも「舘VSメンバー6人」で修復不可能な亀裂が生じてきたことが舘脱退の原因、および水口・ジェームスが舘に対しての反感から、舘主演の映画出演を拒否した理由らしい。
舘は脱退後キングレコードに残り、「舘ひろしとセクシーダイナマイツ」を結成。その後ソロとなり、そのまま俳優として東映に所属。その後石原裕次郎に俳優としての才能を見い出され、石原プロモーションへ移籍する。
ここでロックバンドとしてのクールスは事実上一旦解散したといわれる。実際に解散コンサートも行われ、それを録音したのが前記の『ハローグッドバイ』である。そのため、現在のクールスとは別だという説もあるが、舘ひろし以外のメンバーで続けられたのも事実である。舘以外のメンバーはこの時点ではすべて解散に反対し、残留してバンド活動を続けていた(前記の「ストレンジブルー」でも、舘が「俺は辞めるけど、お前たちは続けるなり、勝手にすればいい」というような意味の言動があったと記述されている)。このときクールス(COOLS)という名称はキングレコードが権利を持っていたと思い込んでいたため、改称せざるを得なかった(しかし権利については後に誤解と判明)。
第2期 クールス・ロカビリークラブ~クールスR.C.[編集]
その後残りのメンバーでトリオレコードに移籍、「クールス・ロカビリークラブ」を結成。村山と水口のツインボーカルで人気を得る。また二代目リーダーにドラムの佐藤が就く(以後、一貫して佐藤がリーダーである)。
『クールス・ロカビリークラブ』『BE A GOOD BOY』『THE COOL』『デッドヒート日比谷』『NEW YORK CITY N.Y.』(山下達郎との共同プロデュース)と5枚のアルバムを出した後、1979年12月水口が脱退。水口の話だと、「実は、舘が辞めた時点で自分も辞めたかった」と後年語っているが、実際はポリスターに移籍することと、マネジメントへの不満だったらしい。
残ったメンバーはさらに、ポリスターレコードに移籍。バンド名も「クールスR.C.」とした。テレビドラマ『爆走!ドーベルマン刑事』にゲスト出演。アルバム『BIG DEAL』『THE HIT』を発表。その後ベースの大久保が脱退(大久保の脱退理由は、「長年のバンド活動から、虚脱感を感じたこと」と前記「ストレンジブルー」に記述されているが舘・水口の場合とは違い、脱退後もメンバーとは交流があり、後に復帰する)。水口脱退後~横山・萩野加入までの5人編成時期を第3期とする説もある。
第3期 クールスR.C.[編集]
1981年10月、それまでスタッフだった横山剣と、同じくスタッフだった萩野知明がそれぞれボーカルとベースで加入。村山一海とともにツインボーカルが復活。アルバム『チェンジリングス』『クールスオールディズスペシャル』『ロックンロールジャンキー』『ロックンロールバイブル』『KINGS OF ROCK'NROLL』を発表した後、1983年、横山が脱退。作詞・作曲もこなす横山の加入により音楽性が向上したが、レコード会社から「音楽性より、元の『舘ひろし時代』のような、革ジャン・リーゼントの不良ロックに戻せ」と言われ、「自分はバイクチーム時代からのオリジナルメンバーではないし、自分の音楽を否定され、キング時代に戻すなら自分が今のクールスにいる意味がなくなった」と感じたことが脱退の原因だった。しかし横山はクールスのメンバーを尊敬しており、現在でもクールスの節目節目の記念にはゲストとして参加している。
ここで一旦活動を停止(解散ではない)。なお1982年7月9日、テレビドラマ『ザ・ハングマンII』第6話「ヨガ秘術 しゃべる水死体」にメンバー全員でゲスト出演している。
第4期 オリジナルクールス90'[編集]
その後しばらく休眠状態だったが、1990年、元メンバーの大久保が呼びかけ、村山一海、佐藤秀光、ジェームス藤木、大久保喜市、濱野和男(飯田和男から改名)のオリジナルメンバーが再結集し「オリジナルクールス90'」を結成する(この時、舘ひろし、水口晴幸も誘われたが両名とも断った)。
アルバム『originalCools 90'』と同名のライブ盤の2枚を発表。しかしすぐに再び大久保、濱野が脱退。
第5期 ザ・クールス(THE COOLS)[編集]
1992年、それまでサポートメンバーだった後藤直樹、元シャネルズの山崎廣明が、それぞれギターとベースで正式に加入し、「ザ・クールス」として再始動。レコード会社もポリスターレコードに移籍。
アルバム『GoodFellows』『Dyed-in-the-COOL』の2枚を発表。16年ぶりに、日比谷野音でのコンサートを成功させた(ゲスト「大久保喜市」「横山剣」「井倉光一(元Moon Dogs)」)。
1997年に後藤、山崎が脱退(後藤はその後もサポートとして参加)。2000年には村山、佐藤、ジェームスに横山、濱野、萩野が参加し、一時的にではあるが「COOLS SPECIAL」としてリユニオンメンバー(第3期メンバー)による再結成ツアーも実現している。
現在 クールス[編集]
(THE COOLSのままで表示される場合もある)
クールスは35年の時を経てなお、村山、佐藤、ジェームスを中心に活動中である(最近はフランク(濱野)も復帰し、活動しているようである)。一時期、現在後藤直樹とワンダラーズを組む和田ジョージがギターとして正式参加していた。
37年以上の長い歴史で若干あいまいになった点もあるが、現在のクールスの正式メンバーはあくまでも村山一海、佐藤秀光、ジェームス藤木、フランク(濱野)の4人であり、後藤直樹、和田ジョージの2人がサポートとして参加しているようである。
以前のような大会場でのライブはなくなったが、現在もライブハウスや地方の会場で積極的に活動中である。現在、千葉県匝瑳市に、クールス専用のライブハウス「 HUNGRY 」がある。
2010年は、結成から35周年を迎え、更にオオクボキイチ(大久保)も復帰し、舘、水口以外のオリジナルメンバーでのツアーも行われた。またその一環として15年振りに9月12日に日比谷野音でのアニバーサリーライブを成功させた(ゲスト「横山剣」「井倉光一」)。
岩城はロックバンド「クールス」には参加していないため、メンバーとの確執は無く、また元々学生時代から現リーダー佐藤と友人だったこともあり、佐藤が企画するファンとのツーリング等に顔を出す等、交流は続いている。
日比谷野音では、新曲「ROCKNROLLER」「MIDNIGHTSTAR」が発売された。
2002年にはオリジナルメンバーであるオオクボキイチが、デビューから脱退までのことと、当時のサブカルチャーを独自の視点で描いた小説「ストレンジ・ブルー」(河出書房新社)を出版している。2006年秋、当時のアルバムの復刻盤がキングレコードからリリースされた。
2007年11月、世界文化社から、第1期・第2期のボーカリスト水口晴幸の視点でクールスを描いた「原宿ブルースカイヘブン」が出版された(一時、映画化の話もあったが、諸事情により中止された)。
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#2 Panasonic DIGA ブルーレイディスクレコーダー DMR-BRX4020 内臓HDD交換
2016製Panasonic DIGA ブルーレイディスクレコーダー
DMR-BRX4020の調子が悪くなったので
内臓HDD4Tを交換してみました。
Amazonで購入し使用したパーツ
●Seagate Skyhawk 3.5" 4TB 内蔵ハードディスク HDD
●玄人志向 SSD/HDDスタンド
「DIGA」は「DVD」のD、「GIGA」(ギガ)のIGAを組み合わせた造語である。
かつてはDVD-RAMの録画・再生のみに対応していたが、2005年春発売モデル以降DVD-RWの録画(DVDビデオ方式のみ)/再生、+R、+RWの再生にも対応するようになった。さらに、2006年秋モデル以降はDVD-RWのVRモード録画にも対応した。松下がDVD-RWの全面開放に向かった背景には「御三家」のひとつで-RW陣営の筆頭格だったパイオニアが不採算のため自社での開発中止に追い込まれ、松下との提携を模索していたことがあげられる(シャープとの資本提携で同社からOEM供給を受けることになり、結局破談に終わった)。なおCPRM対応DVD-Rは2005年夏モデルから、DVD-R DLは同年秋モデルからの対応である。
また、2006年発売のDMR-BW200や2007年以降発売のi.LINK(TS)端子搭載モデルでは2008年から発売が開始されたHDD搭載ビエラと接続しダビング/ムーブすることが可能。
インターフェイスやリモコンはVHSを踏襲している。本体が持つボタン数は他社と比べ少なく、リモコンも「ボタンすっきりかんたんくるくるリモコン」と称している通りボタン数が少ない。また2006年モデルまではHDD容量が当時の最高級機種DMR-XW50/BW200でも500GBと他社の製品に比べて控えめだったが、2007年に1TB(1000GB)のモデル(DMR-XW51/BW900)も発売された。
待機電力が高くなるが、電源を入れてから1秒で録画などを開始できる設定にすることも可能である。これは、当時世界最速の起動時間だった。さらに2005年春モデルでは4.7GBディスクに4時間録画可能な「LPモード」の画質を大幅に向上させた(この録画機能を松下はカタログなどで「高解像度LPモード(フルD1)」と称している)。
近年では「DIMORA(ディモーラ)」と称した、インターネット上からの予約録画などを行える機能を装備している(ブロードバンド環境必須。要会員登録。)。2008年3月31日まで一部サービスが有料だったが、リニューアルにより4月1日にすべてのサービスが無料になった。しかし2011年7月から自動録画予約の結果表示やHDDの残量通知及び予約重複通知など、PCや携帯へのメール通知サービスが有料になった。尚、新しいDIGAのBZTシリーズ(及びBWT500、BRT300)以降のDIGAでは、有料のMEMORA(ミモーラ)サービスを通し、PCや携帯、スマホ及び iPad から 録画済みシーンの再生操作を行うことも可能になった。
2011年以降モデルはシングルチューナーモデル(BRT/BRシリーズ)の一部を除きUSB-HDD接続と「BDXL(100GBブルーレイディスク)録再」に対応[1]。本体HDD容量がいっぱいになっても繋いだ外付USB-HDDへの録画と(USB-HDDから)BD/DVDへのダビングが出来、加えて従来型ブルーレイディスクから大容量の100GBブルーレイディスクへもダビング出来るよう「BDからHDDへの書き戻し(ムーブバック)」機能も追加されている[2][3][4]。また2011年以降モデルは別売りのかんたんリモコン「DY-RM10」にも対応しており(付属モデルもあり)、このリモコンを用いれば(付属リモコン使用時とは異なる画面表示となるため)再生時に自分専用の録画番組のみを表示出来、他人が録画した番組の誤消去を防げるようになっている[5]。 さらにビエラ各機器の付属リモコン及び(パナソニック以外の他社製機器も操作可能な)汎用リモコン「RP-RM202」でもディーガを操作可能(但し基本操作のみで予約などの特殊操作には非対応。またRP-RM202でディーガを操作する場合は予め操作機器を「DVD」に切り替えておく必要がある)[6]。
アナログAV入出力端子は2012年春モデルより全機種S端子とD端子を全廃しコンポジット映像端子のみ搭載。HDMI搭載テレビにする必要は無いがシングルチューナー普及モデル「BRTシリーズ」はコンポジットアナログAV端子が出力のみとなり、ビデオデッキなど外部アナログAV機器からのダビングは不可となった。そのため必要な場合は注意が必要である(4Kチューナー内蔵機種はチャンネル録画・トリプルチューナー搭載上位モデルも含めアナログAV入力端子を全廃)。 。
2013年以降モデルはアナログAV出力端子を全廃し、TV受像機とはHDMIケーブルでしか繋げなくなった[7]。このためビエラ2005年以前モデル(LX500・PX50・LX50・LD60シリーズ以前、及びブラウン管D65シリーズ以前のビエラリンク=HDMI端子非搭載機種)との組み合わせ不可(従来型アナログTV受像機における外付デジタルチューナーとしての使用も不可)。さらに(登場当初はほぼ全機種に搭載されていた)光デジタル出力端子は現在トリプルチューナーの「BZT」シリーズと(トリプルチューナーに加え)チャンネル録画機能搭載の「BXT」シリーズのみへの搭載となり、Wチューナーの「BWT」シリーズとシングルチューナーの「BRT/BR」シリーズは光デジタル出力端子を廃止した(2011年発売の「DMR-BWT510」と「DMR-BRT300」がWチューナー及びシングルチューナーディーガの光デジタル出力端子搭載最終モデル)[8]。4Kチューナー内蔵モデルは上位機も含め光デジタル出力端子を全廃し、ホームシアターとはHDMIケーブルでしかつなげなくなっている(デジタルコードレスサラウンドヘッドホンとの組み合わせ不可。アナログヘッドホン端子も全機種非搭載のため、ヘッドホンはTV受像機やアンプなどを経由してつなぐ)。
なおパナソニックではディーガ専用レンズクリーナー「RP-CL720A」を発売。他のBD/DVD用レンズクリーナーを使うとディーガが認識せずエラー表示が出る可能性があるので、ディーガのレンズクリーニングにはパナソニック純正「RP-CL720A」の使用が推奨されている[9]。
また日立製作所のBD/DVDレコーダー自社生産撤退に伴い、(日立の子会社)日立リビングサプライへディーガのOEM品がしばらく(日立系列店「日立チェーンストール」限定モデルとして)供給されていたが、2012年モデル「DVL-BRT12(DMR-BWT520のOEM)」を最後に(日立リビングサプライへの)ディーガOEM品供給は終了。2013年以降は(日立のHDMI連動機能「Woooリンク」がビエラリンクと同一規格である事から)本家である「ディーガ」が日立チェーンストールへも供給されている[10]。
全ての機種には「同軸アンテナ線」が1本付属されているが、径が細いため取説では「付属アンテナ線は地デジ専用(ディーガの地デジ出力端子とビエラの地デジ入力端子相互間をつなぐ)ケーブルとして用い、BS・110度CSデジタル受信は4K/8Kに対応した市販の高性能同軸アンテナ線を別途用意する」よう指示されている。なおプライベートビエラに同軸アンテナ線は付属されていない。
4Kチューナー内蔵機種は従来型着脱式B-CASカードに代わり「A-CASチップ」を本体に内蔵しており、デジタル放送視聴時に必須となる「B-CASまたはmini B-CASカード」を紛失・損傷する心配が解消。加えて「4Kチューナー内蔵全自動ディーガ(チャンネル録画搭載モデル)」では、視聴用とチャンネル録画用とでB-CASカードを複数枚用意・契約する手間も解消されている。
※フリー百科事典ウィキペディア
(Wikipedia)より転載
【YouTube】日産セドリック330
懐かしい車だよね~旧車最高やね~
テリー氏もイクラちゃんも楽しそうだなぁ
セドリック(CEDRIC)は、日産自動車が1960年から2004年まで製造・発売していた高級セダンである。なお、2014年11月まで製造・販売されていた同名の営業車についてはセドリック営業車を参照。また、一般、官公庁向けに販売されていた自家用セダンについてはセドリックセダンを参照。
4代目 330型系(1975年 - 1979年)[編集]
日産・セドリック(4代目) 330型系 |
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4ドアハードトップ 2000SGL-Eエクストラ(後期型)
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4ドアセダン GL (後期型)
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概要 | |
別名 | 日産・グロリア(5代目) |
販売期間 | 1975年6月 - 1979年6月 |
ボディ | |
乗車定員 | 5人 |
ボディタイプ | 2・4ドアハードトップ 4ドアセダン ライトバン |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | 2.8/2.0L 直6 2.0L 直4 ディーゼル2.2/2.0L 直4 |
変速機 | 3速AT 5速 / 4速MT |
サスペンション | |
前:ダブルウィッシュボーンコイル 後:リジッド半楕円リーフ |
|
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,690 mm |
全長 | 4,785 mm |
全幅 | 1,705 mm |
全高 | 1,440 mm |
車両重量 | 1,440 kg |
その他 | |
ブレーキ | 前:ディスク 後:ドラム |
最高速度 | 180 km/h(4ドアセダン 2800SGL) |
デザインはキープコンセプトながら、アメリカンスタイルをさらに昇華させた。ボディは4ドアセダン、4ドアハードトップ、2ドアハードトップ、バンの4種で、ワゴンは廃止された。
発売時のグレードは、ディーゼルを除く4ドアセダンで2,000 cc車はスタンダード・デラックス・カスタムデラックス・GL・SGL、2,800 cc車はSGL、ハードトップで2,000 cc車はカスタムデラックス・GL・SGL、2,800 cc車はSGL、バンではスタンダード・デラックス。この他にタクシー向けにLPG仕様のカスタムデラックス、スタンダード。
ガソリン・LPG乗用車は、発売当初型式は単に330だったが、後の制度変更により、A-またはH-の識別記号が付くようになった。昭和50年排出ガス規制対応として、乗用車系はプレジデントと共に採用された排出ガス浄化装置 (NAPS) が付き、車重も230型よりも増加した。インテリアは格段に豪華なものとなり、最上級グレードの「ブロアム」(Brougham)も登場した。エンジンはGXグレードの廃止により全車シングルキャブエンジンとなった。
販売面でも好調な成績を推移し、モデルサイクルの途中でセドリックとしての累計生産台数100万台に達成することにもつながった[5]。
サスペンションは、前ダブルウイッシュボーン後ろ縦置き半楕円リーフである。
販売終了前月までの新車登録台数の累計は27万8502台[6]
#1 PanasonicDIGAブルーレイディスクレコーダー DMR-BRX4020 内臓HDD交換
うちの奥さんにとって
私より大事な
2016製Panasonic DIGA
ブルーレイディスクレコーダー
DMR-BRX4020の
調子が悪くなったので
内臓HDD4Tを交換してみました。
Amazonで購入した使用パーツ
●Seagate Skyhawk 3.5" 4TB 内蔵ハードディスク HDD
●玄人志向 SSD/HDDスタンド
「DIGA」は「DVD」のD、「GIGA」(ギガ)のIGAを組み合わせた造語である。
かつてはDVD-RAMの録画・再生のみに対応していたが、2005年春発売モデル以降DVD-RWの録画(DVDビデオ方式のみ)/再生、+R、+RWの再生にも対応するようになった。さらに、2006年秋モデル以降はDVD-RWのVRモード録画にも対応した。松下がDVD-RWの全面開放に向かった背景には「御三家」のひとつで-RW陣営の筆頭格だったパイオニアが不採算のため自社での開発中止に追い込まれ、松下との提携を模索していたことがあげられる(シャープとの資本提携で同社からOEM供給を受けることになり、結局破談に終わった)。なおCPRM対応DVD-Rは2005年夏モデルから、DVD-R DLは同年秋モデルからの対応である。
また、2006年発売のDMR-BW200や2007年以降発売のi.LINK(TS)端子搭載モデルでは2008年から発売が開始されたHDD搭載ビエラと接続しダビング/ムーブすることが可能。
インターフェイスやリモコンはVHSを踏襲している。本体が持つボタン数は他社と比べ少なく、リモコンも「ボタンすっきりかんたんくるくるリモコン」と称している通りボタン数が少ない。また2006年モデルまではHDD容量が当時の最高級機種DMR-XW50/BW200でも500GBと他社の製品に比べて控えめだったが、2007年に1TB(1000GB)のモデル(DMR-XW51/BW900)も発売された。
待機電力が高くなるが、電源を入れてから1秒で録画などを開始できる設定にすることも可能である。これは、当時世界最速の起動時間だった。さらに2005年春モデルでは4.7GBディスクに4時間録画可能な「LPモード」の画質を大幅に向上させた(この録画機能を松下はカタログなどで「高解像度LPモード(フルD1)」と称している)。
近年では「DIMORA(ディモーラ)」と称した、インターネット上からの予約録画などを行える機能を装備している(ブロードバンド環境必須。要会員登録。)。2008年3月31日まで一部サービスが有料だったが、リニューアルにより4月1日にすべてのサービスが無料になった。しかし2011年7月から自動録画予約の結果表示やHDDの残量通知及び予約重複通知など、PCや携帯へのメール通知サービスが有料になった。尚、新しいDIGAのBZTシリーズ(及びBWT500、BRT300)以降のDIGAでは、有料のMEMORA(ミモーラ)サービスを通し、PCや携帯、スマホ及び iPad から 録画済みシーンの再生操作を行うことも可能になった。
2011年以降モデルはシングルチューナーモデル(BRT/BRシリーズ)の一部を除きUSB-HDD接続と「BDXL(100GBブルーレイディスク)録再」に対応[1]。本体HDD容量がいっぱいになっても繋いだ外付USB-HDDへの録画と(USB-HDDから)BD/DVDへのダビングが出来、加えて従来型ブルーレイディスクから大容量の100GBブルーレイディスクへもダビング出来るよう「BDからHDDへの書き戻し(ムーブバック)」機能も追加されている[2][3][4]。また2011年以降モデルは別売りのかんたんリモコン「DY-RM10」にも対応しており(付属モデルもあり)、このリモコンを用いれば(付属リモコン使用時とは異なる画面表示となるため)再生時に自分専用の録画番組のみを表示出来、他人が録画した番組の誤消去を防げるようになっている[5]。 さらにビエラ各機器の付属リモコン及び(パナソニック以外の他社製機器も操作可能な)汎用リモコン「RP-RM202」でもディーガを操作可能(但し基本操作のみで予約などの特殊操作には非対応。またRP-RM202でディーガを操作する場合は予め操作機器を「DVD」に切り替えておく必要がある)[6]。
アナログAV入出力端子は2012年春モデルより全機種S端子とD端子を全廃しコンポジット映像端子のみ搭載。HDMI搭載テレビにする必要は無いがシングルチューナー普及モデル「BRTシリーズ」はコンポジットアナログAV端子が出力のみとなり、ビデオデッキなど外部アナログAV機器からのダビングは不可となった。そのため必要な場合は注意が必要である(4Kチューナー内蔵機種はチャンネル録画・トリプルチューナー搭載上位モデルも含めアナログAV入力端子を全廃)。 。
2013年以降モデルはアナログAV出力端子を全廃し、TV受像機とはHDMIケーブルでしか繋げなくなった[7]。このためビエラ2005年以前モデル(LX500・PX50・LX50・LD60シリーズ以前、及びブラウン管D65シリーズ以前のビエラリンク=HDMI端子非搭載機種)との組み合わせ不可(従来型アナログTV受像機における外付デジタルチューナーとしての使用も不可)。さらに(登場当初はほぼ全機種に搭載されていた)光デジタル出力端子は現在トリプルチューナーの「BZT」シリーズと(トリプルチューナーに加え)チャンネル録画機能搭載の「BXT」シリーズのみへの搭載となり、Wチューナーの「BWT」シリーズとシングルチューナーの「BRT/BR」シリーズは光デジタル出力端子を廃止した(2011年発売の「DMR-BWT510」と「DMR-BRT300」がWチューナー及びシングルチューナーディーガの光デジタル出力端子搭載最終モデル)[8]。4Kチューナー内蔵モデルは上位機も含め光デジタル出力端子を全廃し、ホームシアターとはHDMIケーブルでしかつなげなくなっている(デジタルコードレスサラウンドヘッドホンとの組み合わせ不可。アナログヘッドホン端子も全機種非搭載のため、ヘッドホンはTV受像機やアンプなどを経由してつなぐ)。
なおパナソニックではディーガ専用レンズクリーナー「RP-CL720A」を発売。他のBD/DVD用レンズクリーナーを使うとディーガが認識せずエラー表示が出る可能性があるので、ディーガのレンズクリーニングにはパナソニック純正「RP-CL720A」の使用が推奨されている[9]。
また日立製作所のBD/DVDレコーダー自社生産撤退に伴い、(日立の子会社)日立リビングサプライへディーガのOEM品がしばらく(日立系列店「日立チェーンストール」限定モデルとして)供給されていたが、2012年モデル「DVL-BRT12(DMR-BWT520のOEM)」を最後に(日立リビングサプライへの)ディーガOEM品供給は終了。2013年以降は(日立のHDMI連動機能「Woooリンク」がビエラリンクと同一規格である事から)本家である「ディーガ」が日立チェーンストールへも供給されている[10]。
全ての機種には「同軸アンテナ線」が1本付属されているが、径が細いため取説では「付属アンテナ線は地デジ専用(ディーガの地デジ出力端子とビエラの地デジ入力端子相互間をつなぐ)ケーブルとして用い、BS・110度CSデジタル受信は4K/8Kに対応した市販の高性能同軸アンテナ線を別途用意する」よう指示されている。なおプライベートビエラに同軸アンテナ線は付属されていない。
4Kチューナー内蔵機種は従来型着脱式B-CASカードに代わり「A-CASチップ」を本体に内蔵しており、デジタル放送視聴時に必須となる「B-CASまたはmini B-CASカード」を紛失・損傷する心配が解消。加えて「4Kチューナー内蔵全自動ディーガ(チャンネル録画搭載モデル)」では、視聴用とチャンネル録画用とでB-CASカードを複数枚用意・契約する手間も解消されている。
「見るな!触るな!近寄るな!」
安いからって、中華、朝鮮製品は
買わない方が良いですよ。
安物買いの銭失いになり後悔するよ。
中華、朝鮮製品で買ってよい物は
使い捨て商品や100均商品。
壊れても惜しくない物。
中華、朝鮮は日本や世界の技術を
パクリまっくているから
商品の研究開発コストが
掛かっていない。
原材料や材質を落とすから
安く生産できる
↓
物が悪いから壊れやすい。
前に段ボール餃子、
鶏肉問題などあった事を
日本人はもう忘れているし・・・
日本のメーカー、大学、研究機関
などに留学や技術実習生として
中国、朝鮮人スパイが大量に
潜りこんでいる。
工業だけではなく農業、飲食、観光、
政治、マスコミなどなど
あらゆる分野でスパイ活動
やりたい放題、パクリ放題が現状。
朝鮮はパクった物は
元々朝鮮が初めに作って
日本がパックったと嘘を
世界中に広めている狼少年。
中国はわかりやすく例えれば
ジャイアン。
「俺の物は俺の物。お前の物は俺の物」
欲しいも物は殺してでも奪え!が
大昔から基本的考え。
安いから中華、朝鮮製品を買う
↓
日本製が売れない
↓
日本の会社が儲からない
↓
日本人の給料が上がらない
↓
給料が少ないから安い中華、朝鮮製品を買う
↓
日本製品が売れない
↓
・・・・負のスパイラル・・・・
この流れを断ち切るにはどうすれば
良いか?
日本の先人方が昔から警告していた様に
奴らと関わらないのが
一番良いのではないか。
「百害あって一利なし」
「見るな!触るな!近寄るな!」
中国(ちゅうごく、簡: 中国; 繁: 中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている[1][2][3]。
本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。
朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。
この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。