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キャロル 二人だけ

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CAROL(キャロル)は、1970年代に活動した日本ロックバンド1972年に結成し同年デビュー、1975年解散。

経歴[編集]

マチュア[編集]

1972年4月、矢沢永吉川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ[9]、同年6月結成される[10][11][12]。貼り紙の文句は、「ビートルズロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった[13][14]。当時はフォークメジャーシーンに浮上しはじめ[15]ディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏できる場所がなくなっていった時期だった[16][17][18]ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという[14][19]。近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという[20][注 2]

もともと、ビートルズコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲ジョニー大倉作詞)した。

当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉[22][26]クリスマス・キャロルインスピレーションを受けたという「キャロル」というバンド名に始まり[27][28][29]革ジャンリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの[26][29]。当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという[30]ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが[注 3]、当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという[29]。矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている[32]

ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態で[22][33]、デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく[33]。矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており[33][注 4]、矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった[33]。ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半矢沢に代表されていた[33][注 5]

キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町ディスコ・ピーナツで初演奏[35][36][37]。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる"ハコバン"として採用された。もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。他に京浜地区ゴーゴーホールナイトクラブ等でライブ活動を行う[11][17]。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う[17]。深夜から明け方まで、"荒くれの兵隊"や、"夜の商売の女"、"酔っ払い相手"に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる[11][35]東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった[11][38][39]

プロデビュー[編集]

フジテレビの番組『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」という企画(「ロキシー・ミュージック#エピソード」参照)に、ジョニーがハガキを送ったが断られた[40][41]。これに頭にきた矢沢が『リブ・ヤング!』の担当者に電話を掛け、「俺たち、とっくの昔からロキシー・ファッションだけど?」などとハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続け番組出演が決まった[9][11][41][42][43]

1972年10月8日、『リブ・ヤング!』に出演したところ[44]内田裕也から先に直接オファーを受けたが[45]、たまたま家で番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり[46]番組プロデューサー石田弘にミッキーから電話があり「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と伝えられ[43]、リーダーの矢沢がミッキーと電話で話し、内田のレーベルか、ミッキーのレーベルかでメンバーは迷ったが[43][47]、結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ[46][47][注 6]

『リブ・ヤング!』出演3日後の10月11日、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ[51]。しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ[注 7]

デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーディング直前、ドラムスを担当していた今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退し、ミッキーの紹介でユウ岡崎が正式メンバーとなった[46][56]

1972年12月25日、「ルイジアンナ」でデビュー[57]。結成から3、4ヶ月でのプロデビューであった[51][58]。同曲のドーナツ盤レコードには、東京文京公会堂の無料コンサートチケットが同梱されていた。同コンサートには和田アキ子が友情出演している。

ミッキーのアイデアで「ルイジアンナ」でデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリース。1972年12月から1973年6月までの7枚のシングルが毎月売り出された[15]。「ルイジアンナ」が20万枚、「ヘイ・タクシー」が10万枚、「ファンキー・モンキー・ベイビー」は30万枚を売り上げた[59]。その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった[59]

2枚目のシングル「ヘイ・タクシー / 恋の救急車」のレコーディング終了直後、ドラムのユウ岡崎がトラブルを起こして逮捕され、またミッキーの紹介で相原誠(後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加)がドラマーとして加入[60]。3枚目のシングル「やりきれない気持ち / ホープ」のレコーディング終了後、ユウ岡崎仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにしてユウ岡崎をメンバーに戻した[注 8]

1973年2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演[61]。『リブ・ヤング!』の熱演で、週刊誌も大きく取り上げ、篠山紀信山本寛斎龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンターたちも会場に集まった[61]。彼らはキャロルのロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感にいち早く着目[11][62]、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマークし、キャロルを被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はディスクジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載。キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った[11][18][63]。当時キャロルのメンバーはライブの前に大量に酒を飲みステージに上がった[64]。「第1回ロックンロール・カーニバル」では、初の大舞台ということもあって極度のトランス状態に陥り、ジョニーが失神した[64]。これによってキャロルは失神するほどの強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた[64]

マスメディアインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった[65][66]

1973年、NHKディレクターだった龍村仁ドキュメンタリー『キャロル』を制作したが、放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった[59][67][68]

この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超えて、社会現象として1つの色に塗り替えた[59][69][70]

この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる[71]

ジョニーは著書で「ドラッグを始めたのは、キャロルがデビューしてすぐのころ」と書いており[72]、当時ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり[22]人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に失踪[73]、1973年11月23日~1974年2月中旬まで行方不明となった[74][75][76]。発見されたのは川崎の精神病院だった[22][77]。そのこともあり、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新メンバー・サミーを加えて活動した(その後ジョニーが復帰[74][78])。

1974年3月21~4月5日、山本寛斎ファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う[51][79][80]

1974年8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた[81]

解散・その後[編集]

メンバー間で軋轢が生じ[82]1975年4月13日日比谷野外音楽堂で解散。3千人収容の会場に7千人がつめかけた[83]。解散ライブでは、特殊効果用の火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングがあった[9]。それを演出と思った観客も多かった[9]。このあまりにも象徴的なハプニングが伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった[83][84]。この解散ライブは「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった[49][85]。解散ライブのテレビ放映は、同年7月12日にTBSテレビ特番ぎんざNOW!』という番組で1時間枠が組まれ「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された[86][注 9]。日本のロックバンドのライブ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる[86]

解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長[84][87]

ジョニー大倉はソロ活動の傍ら、俳優としても活躍していたが[88]2014年11月19日肺炎により死去[89][90]。62歳没。

内海利勝はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションで作品を発表したほか、原田芳雄のサポートやソロ活動を展開[91]。2012年には矢沢のライブに出演し、37年ぶりの競演を実現させた[92]

ユウ岡崎は現在『C's Graffiti Japanese Rock'n Roll Band』で活動している。

※フリー百科事典ウィキペディア
Wikipedia)より転載